由緒と祭神
















聖徳太子像
一、御祭神と鎮座の起源

 大阪が「押照や難波」と詠まれた今から千四百数年前、崇峻天皇二年(589年)七月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさいました。その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建なされたのです。御父用明天皇崩御の後追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。
 初め境内地も方八町あったと云います。そして本殿、拝殿始め楼門に至る迄華麗で、目を驚かすばかりだったようです。
 それゆえ古地図、古文献等にも多数記された由緒ある古社であり、さらに人皇三十一代用明天皇(欽明帝第四皇子、橘豊日命)並びに穴穂部間人皇后を祭る日本唯一の神社です。(間人皇后のページへのリンク
 しかしながら時移り世が変ると、御社の衰えも大層甚しく、今は小社に鎮座していますが、この宮所は実に千四百年の星霜を経ています。このように歴史が古く、由緒の正しい社は日本が広いといえども数少ないのです。
 なお用明天皇御陵は南河内郡太子町にあります、磯長原陵(しながはらりょう)です。

 色かはる下葉よりこそ散にけり森之宮の秋の初かぜ    直 好


二、社名の起因

 社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、上古難波の杜(もり)と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士磐金(きしいわかね・聖徳太子の命により新羅へ使者として渡る、鉄鋼業の祖)と云う人がいまして、新羅国より還って来て、鵲(俗に朝鮮烏)二羽を献上しました。(「日本書紀」推古六年夏四月の条に載っています)
 この森に飼わせなさったことから「鵲の森]と称え、遂に宮の名となり略して「森之宮」又は「森明神」とも云うようになりました。鵲とは日本の烏(からす)によく似ており、全体が黒く、腹部の白い烏で、韓国や北中国には多く生息しています。昭和十七年五月帝国海軍水雷艇「鵲」より剥製の鵲を当社に献上してもらい、現存しています。

 来ても見よ日影はもれていつしかと緑さしそふ鵲の森    貞 丈
 秋風のおと身にしみてかささぎの森の梢は神さびにけり  熊 彦
 今年より桜を森の宮なれば神よ心を花にゆるすな       直 好


       
三、社領と氏地

 当社の造営当時は、方ハ町にして神領神田広大といいます。また神頷は千石余あったと伝えています。その後元亀天正の時代、織田信長の石山攻めの時、武人の為に掠奪され、かつ建造物もまた兵火に被って、社殿はことごとく灰塵と化しましたが、御霊体は事なく別所に奉安することを得たと伝えられています。
 現在の城東区の天王田とか、東大阪市住道近くの御供田というのはその名残りです。







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