由緒と祭神>間人皇后(はしひとこうごう)


 京都府の北部の丹後半島に、「間人(たいざ)」という変わった読みをする地名があります。この漢字にこんな読みはありません。
 ではどうして「間人」を「たいざ」と読むのでしょうか。それは第三十一代用明天皇の頃、天皇のお后で、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇后に由来していると伝えられています。
 六世紀末、仏教に対する考えの違いと皇位継承問題をめぐって、蘇我氏と物部氏の間に争いが生じた時、皇后は乱を避けて、当時大浜の里と呼ばれていたこの地に滞在されました。当時ここに彼女の領地があったと言います。やがて争いが鎮まり奈良の斑鳩の宮へ帰られる時、里人の手厚い持てなしに感謝して、

    大浜の里に昔をとどめてし間人(はしうど)村と世々につたへん

 という歌を詠まれました。
 皇后から戴いた御名をそのまま地名に使うことは恐れ多いとし、この大浜の里を「ご退座」されたことに因んで「はしうど」ではなく、「たいざ」と読み伝えることになりました。いま間人に行きますと、皇后と聖徳太子の像が立岩の側に立っていますし、丘の宮という地名も残っています。
 この「間人(たいざ)」の地名の伝説を裏付けるように、平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野(たかの)郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」と書かれています。当時すでに「間人」という地名が存在したことは確実になりました。
 そして「土師部」が「はしひと」と読めることも何か謎を秘めているように思われます。
  「鵲森宮」にお祀りしている聖徳太子の母君の名が、遠く丹後半島の「間人(たいざ)」の地に今も残っていることは、感慨深いものがあります。

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