神社解説>鵲橋の話


 鵲森宮の境内には、大伴家持(おおとものやかもち)の歌碑があります。

   鵲之かささぎの 渡瀬瑠橋迩わたせるはしに  置久霜乃おくしもの    
   白気乎見者しろきをみれば 夜曽更仁来よぞふけにける 

 という『小倉おぐら百人集』で有名な歌です。出典は『家持集やかもちしゅう』です。
 しかしこの歌は『万葉集』には載っていません。奈良時代の『懐風藻かいふうそう七夕たなばた』には、

   仙車鵲せんしゃかささぎの橋を渡り

 とありますが、『万葉集』では、天の川を舟で渡るというのが多いようです。
 山上憶良やまのうえのおくら等、遣唐使けんとうし一行が帰朝の際に持ち帰ったとされる『遊仙窟ゆうせんくつ』や『淮南子えなんじ』の内容が『万葉集』に引用されたりしていますが、『白孔六帖』鵲部、所引の『淮南子』
佚文いつぶんには、

  烏鵲うじゃく、河をうずめて橋を成し、織女を渡らしむ
  
とあるようです。七夕の夜、鵲が翼を広げて天の川に橋を架け、織女を渡すという中国の伝説の「鵲の橋」なのです。
 しかし、冒頭の家持の歌は冬の歌であり、七夕の歌ではありません。
 大伴家持は、天平勝宝七年(755)には、副都としての難波宮で、防人さきもりを管理する役についていました。
 鵲森宮は、難波京なにわきょうの東の域内にありました。「難波往古図なにはおうこず」や国会図書館蔵の「堀河院御宇ほりかわいんぎょう浪華古圖なにはこず」にも「鵲ノ森」と記されています。
 そして翌、天平勝宝八年三月七日には、聖武太上天皇しょうむだじょうてんのう孝謙天皇こうけんてんのう光明皇太后こうみょうこうたいごうと共に家特等は河内国伎人郷かわちのくにくれのさと(今の東住吉区喜連きれの地に比定)の馬国人うまのくにひとの家でうたげを催されました。
 この地には当時、天野川あまのかわと呼ばれた川が流れていました。この「天野川」とは、南方の標高百二十メートルほどの天野山に源を特つ川なのです。
 天平三年(731)に上進された『住吉大社神代記すみよしたいしゃじんだいき』 (重文)にも、

  天野水あまののみずあり・・・

 とあります。大体家持は、この天野川が鵲森宮の東側に流れ込んでいるのを知っていたと思われます。その天野川にかかる橋が「鵲の橋」で、七夕の夜だけに鵲が羽根を並べて、鵲の橋を作るのです。その橋を渡るのは、この国では彦星なのです。
 しかし、この歌のせいでしょうか「鵲橋」が鵲杜かささぎのもりの前に、明治まで残っていましたし、明治時代には、森村鵲というあざもありました。都市化が進み、川は埋められ道路に変わってしまい、「鵲橋」は忘れられようとしています。
 昔の地名と現在の地名を比較する場合、あざ名がよく用いられます。特に神社名等は、千年以上も変化していないことがよくある為、傍証ぼうしょうとして使われます。
 天野川と鵲橋と鵲杜、推古天皇の御代の鵲二羽献上の話(推古六年夏四月『日本書記』)がそろえば、冒頭の歌碑は鵲森宮にふさわしいものと言えると思います。

  *『万葉集』に「杜」や「神社」が古訓で〔もり〕と読まれています。

  *鵲森宮は旧名は「鵲杜」(かささぎのもり)と言います。

  *天野川は、江戸時代に流路を変更された現在の大和川に合流する形となりました。

  〔高山 多美子〕

 なお当社の由緒書等は社務所前にあります。

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